ある夜、家族とちょっとした口喧嘩をして、カーっとなって家を飛び出した。
とにかく外に出た。
ところが出たものの、何も持たずに来たから間が持たず、すぐ帰ることになるだろうと予想していた。でも、すぐに帰っても家の人たちは私が家出をしたことも気づかないだろうことがシャクなので、なんとか30分は外にいよう、と田圃の中の夜の道をゆっくり歩いた。
空には月。
大通りの明るい道を歩きたくなく、かといってあまり家のなさすぎる山の中へ行くのも怖い。ちらほらと適度に家があり、川が流れ、静かな道を行ったり来たりゆっくり歩いた。
歩きながら、急に気づいたのだ。
「待てよ、この時間って、私が、私とだけいる時間。これ、私の時間だ」
フルタイムで働き、家に帰れば子供たちの世話。
職場でも家でもめいっぱいに動き回る毎日の中には自分の時間なんてどこにも見当たらず、体だけはせっせと動きながら、中身は空っぽで、置き去りにされた私自身は怒りに燃えていた。
「私だって自分の時間が欲しいんです」
月に向かっての独り言がポロリと溢れた。
一言言うと止まらなくなった。
「私だって一人の人間だ。自分だけの、誰にも邪魔されない時間が欲しいんだ」
「家族はみんな一人一人自分の時間と空間があるくせに、私だけないんだ。なんだって私ばかりがみんなの世話をしてなきゃならないんだ。私だって一人の人間だ。掃除洗濯食器洗い。そんな仕事は私だけの仕事じゃない。私だって私を生きていきたいんだ。本を読んだり、映画を見たり、ギターを弾いたり、小説を書いたり。私はそう言う人間なんだ。そんな時間が欲しいんだ」
だんだん腹の底から声が沸き上がり、同じ道を行ったり来たり、いつの間にか身体中から力がみなぎって、お月様とおしゃべりしている間に3時間があっという間に過ぎ去った。
うちに戻ったのは夜の11時で、家の中は高校生の娘一人だけが起きていて、後はみんなもう寝ていた。
くたびれ切った私はお風呂に入ってお湯を流して寝た。
起きていた娘が2階から降りてきて、
「私、まだお風呂入ってなかったのに流されちゃった」
とシャワーをしていた。あ、かわいそうなことしたな。と思いながら疲れ切って寝た。
夜遅くまで歩いて疲れてるはずなのに、朝は早く目が覚めた。家族と顔を合わせたくなかったから、軽くご飯を食べて洗濯機を回しっぱなしにして誰にも会わないままそのまま仕事に出かけた。こんなこと初めてだ。
職場に着いたら6時50分だった。
こんなに早い時間に仕事場に来たのも初め。
帰りは早く帰ろう。
と思っていたけれど、結局忙しい時期でもあり、いつも通りまで仕事をした。
職場から家に帰る車の中で、
「今日はホテルに泊まろうかな」
とふと思った。
でもそんな現実的じゃないこと、できないよな、用もないのに一人でホテルに泊まるなんて、今までしたことないし。
「でも、やってみたらできるのかな。試してみようかな」
家に戻ると、静かだ。
誰もいないダイニングのテーブルの上に試しに置き手紙を書いてみた。
「〇〇ホテルに泊まります。緊急の時だけ連絡ください」
書き終わってみたところで、高校生の娘が不意にお風呂から上がってきた。いたのか!
置き手紙を見られちゃったので仕方がないから、
「私、今日はホテルに泊まるからよろしく」
と試しに言ってみた。すると、
「あ、そうなんだ。わかった」
という。
なんだそれ。あっけない。笑ってしまう。やろうと思ったらこんなに簡単なことなんだね。
娘は気を効かしてなのかどうなのか、
「なんかあったの?」
とあっけらかんと聞いてくる。
「そーだよ。お父さんが私を怒鳴るのが嫌だから一人で泊まる」
「ふーん。明日仕事は?」
「明日はお休み」
「ふーん」
「じゃね」
「うん」
そうして私の初めてのお泊まり家出が実行されたのであった。
すごいなー。やろうと思ったらできるんだな。
ホテルの小さな一部屋は私だけの空間。そして明日の午前中まで私一人だけの時間!
何年ぶりにこんな時間を持つだろう!
ヤッホー!
ところが。
昨日の月夜の散歩と今朝の早起きが祟って、せっかくの自分の夜なのに、私は9時にもう眠ってしまった。
ホテルのエアコンが点けると寒いし消すと暑い。
つけたり消したりしながら寝て起きたら朝の5時半。
うん、よく寝た方だと思う。
頭はスッキリしている。
すぐさまノートを取り出した。
ところがしまった。筆記用具を忘れた!
何か書くもの! ホテルのボールペンか、まあこれでいい。
とにかく文章を書きまくる。
書いて書いて書きまくる。
チェックアウトは11時だから、それまでめいっぱい書いてやろう。
楽しくて仕方がない。
10時過ぎに電話が鳴った。
「あの、チェックアウトは10時なのですが。。。」
なんですって!
慌ててシャワーをして荷物をまとめてチェックアウトをした。
慌ただしく過ぎた、たった一晩。たった一晩の自分の時間だったけど、持ててよかった。とてもいい時間だった。
泊まりの家出。私だけの時間。初めての私の体験だった。
家に帰ると流石に夫も私を心配して優しくしてくれていた。
お昼ご飯も準備してくれていたけれど、どうも食欲がない。
いろんなことがあったからな。
疲れたかな。少し頭がガンガンする。
喉がイガイガする。
体温を測ると、37・5℃。
あ、熱だ。
と思ったら途端にだるくなって、午後の美容院をキャンセルして寝る。
熱は下がらない。
次の日になっても下がらないので病院へ行ってコロナの抗体検査をしてもらった。
結果は意外なことに陽性ではないか。
なんだって? いつ、どこで?
いやもう、今はどこでうつっても仕方がない状況だ。
しかしまさかのこのタイミングである。
なんと言ったって2週間後に、私が企画担当の展覧会が開催すると言うのにどうしたこった。
こんな時にいつも私が感じるは、
「この先の展開はどうなってしまうのだ? 乞うご期待!」
と言うモゾモゾ感だ。
こう言う時に、
「神様はどうやって私を助けてくれるんだろう」
とドキドキしてしまうのだ。
どうやって助けてくれるのだろう。
つまり、助けてくれることを信じて疑ってない自分である。
さて、職場の上司の対応はひどいものだった。
私の体の心配は一切せず、厄介なことを引き起こした私に腹が立っているのがあからさまである。
なんと。いつもはそんなにひどい上司ではなく、むしろ好意を持って見ていたのに、コロナって人を変えるのだ。
上司と何度ラインのやり取りをしても、上司の腹立ちは一向に治る様子がない。
部下がコロナになると、上司の評価が下がるのだろうか?
どう言うシステムだ??
よし。上司のことを考えるのはもうやめよう。
私の部下だ。部下さえしっかりしてくれていれば、ここは切り抜けられるのだ。
それから部下にメールの嵐である。
あれしろ、これしろ。の指示を山ほどする。
いつもはつい「みんなそれぞれの仕事で忙しいからなあ」と自分でやってしまっていたけれど、こうして指示を出してみると、
「私って本当にたくさんの仕事を一人で抱えてやってたんだな」
と実感する。
「コロナでなくっても、こうやって指示出して仕事を分担すればいいんだね」
とすら思った。
とにかく部下は優秀で、私が送ったメールの山をきちんとまとめて確認し、「明日から取り掛かります。なんでも遠慮なく言ってください」と仕事をこなしてくれる。
よかったー。お礼をたんまりしなくっちゃ。
そして我が家である。
コロナの偉大なる感染力から子供達を守るため、夫は車に子供を乗せて横浜にある別宅へ逃げ去ってしまった。猫まで連れて行ってしまったので、私は完全に家に一人である。
「ちょっと待った神様。私、一人の時間をまたいただけました?」
ヤッホー!
コロナの熱は家族が横浜へ向かって出発した瞬間から下がり出し、いつもご飯を食べているダイニングテーブルはあっという間に私だけのためのデスクになった。デスクの上には読みかけの本、音楽のスピーカー、ギターの楽譜、なんでも書き散らせるノート。
幸せの光景である!
10日間、私は自由であるー!
みんな、こんな自分だけの時間を持つべきである。
誰にも邪魔されない、自分だけの時間。
コロナにならなくっちゃこんな時間を持てない人類ではいけないね。
コロナじゃなくっても、こんな時間を持とうぜみんな。